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宴の船は滝壷へ向かって進んでいるのか
〜今必要なのはあなたの「なんで?」〜

2005年2月



はじめに。今回から文調を変えることをお知らせします。「身の丈に戻す」といったほうが正確でしょうか。以前は、印刷物用に書いていたため、文字数を減らせる「で、ある」調にせざるをえなかったのですね。でもその語調のため本人の力量以上に相当に偉そうになってしまっていて、かつ逆に形が内容を規定してまう、つまり「ためになるような高尚な事をビシっと書かねばならぬ」という思い込み(思い上がり?)も生まれてしまって、気軽に書けなくなっていました。つくられたアイドルが「これは自分じゃない」という感覚でしょうか?...って、だいぶ違うかしら?

ということで、今年からは、いい加減でゆるゆるの、本来(と思っている)のわたしのままで、書き綴ってゆこうと思っております。よろしくおつき合いのほどお願いいたします。
以上、業務連絡でした(?)。さて...。

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見なれた文字をじっと見ていると、ある瞬間から「あれっ?この文字ってこんな形だっけ?」という違和感を覚えることがあります。これを心理学で「ゲシュタルト崩壊」というそうです(「ゲシュタルト」はドイツ語で「形態、まとまり」の意)。先日「トリビアの泉」でやってましたね。まとまりとしての意味(認知)を失う現象ということです。脳に何らかの障害が起きるとこれが恒常的に起きてしまうそうで、そうなるともはや普通の生活を送れなくなってしまうという。

しかし正常な人でも時々に起きるようで、わたし(たぶん正常だと思うんですけど...)の場合、手書きで文字を書くときにあります。難しい文字よりも、むしろ単純な形の文字の方が起きるような気がします。一旦、「あれっ?」と思うとどうにもその文字が妙な形に思えてきて、なんでこんな形なんだろう?と同時に、今までなぜ気にならなかったのか、と自分の鈍感さに対する感情も生まれたりします。そんな事がなぜ起きるのかというしくみは、心理学の深〜い話しになってしまうようで、というか私にもよくわからない世界なので、ここでは割愛しますが、これって、文字に限ったことではないなあ、というのが今回のお話です。

おそらく、人が(ときに大勢とともに)生きてゆくには、なんらかの事前の、暗黙の了解事項が必要で、それを「なんで、なんで」といちいち突っかかっていたら、一歩も前に進めないでしょう。「常識だから」、「一般的には」、「それはそういうものだから」で済まされている事が多いのはむしろ当然のことなのかもしれません。また人智及ばずということもあるでしょうしね。 

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しかしです(...ほらキタキタ)。私の場合、生来というか、子供の頃からどうもこういった事に妙な反発心があって、親、教師から一方的に「こうですよ」と言われること、クラスメイトの大勢が賛成することに「(反抗的態度むき出しで)なんで?」とよく突っかかっていました。当然、そいう輩には「つむじまがり」、「天の邪鬼」、「ひねくれもの」、「和を乱す不届き者」、「協調性のないやつ」、「世間知らず」、「アホちゃうか(なぜか関西弁)」という評価が付くわけで、いうところの変なやつでした。

物理とか数学とか説明不要の「公理」がふんだんに出てくるような学問は途中から完全に理解不能になってしまいました。でも今思うと、それは理解不能というよりは、それをただ押し付ける、または説明努力を放棄した教師への反感を、自分の不勉強の理由にすり替えていただけなのかもしれませんが。自分の変わり者度は、だいぶ以前よりは押さえられるようになったつもりだけれど(そこの人「ええっ?」っていう顔しないでね)、どうにも「なんで?センサ」は敏感に生きていて、権威主義的な言動をする人や、無批判な同調といった状況に出くわすと反射的に「カチン」ときちゃうんですよ。ただこの年令で、あんまりそれを発露してしまうと結構生きにくいですね。

でもね、今はね、多くの人が「あたりまえ」「当然でしょ」「しょうがない」と受け入れて従っていること、またはそういう状態をあえて疑うことが相当に重要なんじゃないかなと思ってます。本屋に行くと、いわゆる「変える・変わる」系の本がそれこそ山となって積まれていますけど、思考を「変える」のって結構難しい。だって今と違う新たな評価軸を持つということだからね。評価軸って価値観とすれば、命にかかわるような事象にでも遭遇しない限りそう簡単には変らんですよ。正論なんだけど、そこに至る方法にはあまり言及されていない気がします。まさかわざと大病を患うわけにもいかないしね。でも「なんで?」と疑うことは結構できそうな気がするんです。

そう。意図的にゲシュタルトを崩壊させちゃうんですね(ここで繋がるわけね...でも、こういう表現って正しいのかどうか)。ただこいつの難点は、崩壊した時に、気持ち悪くなることですかね。間違うと自己否定に走っちゃうかも。それと確実に「生きにくく」なりますね。そういう意味ではおすすめはできないのかもしれません。

「でも」なんです。あえてやらないといけない時代に生きているように思うんですよ。摩擦がおきないように合わせて生きるというのは、一つの知恵だけど、それは卑小な幸せしか生まない気がします。その場は丸く治まってますけど、引いて見たら、宴の船は滝壷へ向かって進んでいるような様(英会話教室のCMでそんなアニメやってますね...あんな感じ)ってまだまだあるんじゃないのかしらね。

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岡本浩一さんという社会心理学者の「無責任の構造」、「権威主義の正体」という本を読みました。「(なんとなく)雰囲気で決まる」ということ、そして疑念が生じることのない(または伏せた)まま同調、盲従することが結果として何を生み出すのか。慄然としました。この本の論旨が万能ではないのでしょうが、いま世の中で起きている「望ましくない出来事」の多くが理解できるように思えました。と、同時に解決は「簡単じゃない」と思い知らされます。

ほらほら、またなんか偉そうなこと書こうとしてる私。すみません....。

菊水電子工業株式会社 ウェブマスター
藤川 貴記 webmaster@kikusui.co.jp

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