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沈黙の春
〜仕様書も取扱説明書もない地球に住むということ〜

2011年4月




2005年の新語・流行語大賞に
当時飛ぶ鳥落とす勢いであった堀江貴文氏の
「想定の範囲内(想定内)」があった。

種々起きる事象の説明の場で
「それは想定内です」と加えれば、
「むむっ、こやつ出来るかも・・・」と見えた。
(当人は内実冷や汗ものであったとしても)

2005年は、JR福知山線脱線事故があった年である。
直接的な犠牲者は死者107名(運転士含む)、
負傷者562名という未曾有の大惨事だった。
当コラムでも「三百倍のツケが返ってくる日」
という記事を書いた。

そして、2011年
想定を越える甚大な災禍が起きた。

◆◆◆◆◆◆◆◆

地震と津波。
地震の巣の上に住む我々は
それを避けることができない。
せいぜい出来ることは、起きてしまった後
どうするかという準備だけである。

大地が裂けようが、
陸地が大波にさらわれようが
そこに生息する動物の生命が失われようが、
実はなんら問題はない。
惑星の活動、現象の一部であり、
生き死にもその「摂理」のひとつである。
自然は冷酷でもある。

モーメントマグニチュード9という
世界的に見ても例が少ない巨大地震。
地球からすれば、いつもよりちょっとブルブルッと
(犬のそれにように)してみただけかもしれない。
だが犬の上に暮らす蚤(我々)にとっては、
生死に関わる大問題である。
人がいるから「災害」という問題(悪いこと)になる。

地球にしてみれば、自然な(持って生まれた)特性であって
「お前、なんてことをしてくれるのだ」と
言われる筋合いのものではない。
嫌なら他に行きな、と言いたいところかもしれない。

人は、この地球上で平穏に暮らせるのが
真っ当なことと思っている。権利と言うかもしれない。
しかし、それは人が勝手に決め込んでいるだけであって
こと自然現象については、かなり担保に不備がある。
というか「地球くん」には全く通用しない。
そのことを、改めて思い知らされる。

そうは言っても
被災した方々の心中は察するに余りある。
一日も早く、日常が戻ることを祈るばかりだ。

◆◆◆◆◆◆◆◆

そして、原発事故だ。
誰もが思ったはずだ。
まさか、自分が生きているうちに
こんな事が起ころうとは。

原発震災は以前から指摘されていたが、
安全神話がそれを封殺してきた。
耐震設計と多重防護がそれを起こし得ないと
政府も企業も国民を懐柔してきたということになる。
しかし、それは起きてしまった。

自分は原発推進派でも反対派でもない。
言うなれば無関心派、傍観者とも言える。
本当は当事者なのだろうが。
原子力発電は総電力の3割を支えています、と言われ
「へぇ、そうなの」という程度の認識が正直なところだ。

賢い人たちが決めてやっていることだから
そう大きな間違いはない「だろう」。
漠然とそう思っていたし、実際他に何が出来るのか。
誰が決めたのか分からないが、
気がついたらそういうことになっていた。
歴史を見ると、大きな過ちは、
大概こういう道を辿っている。
同事例がまた増えたか。

◆◆◆◆◆◆◆◆

この事故は天災なのか。
トリガは地震と津波という自然現象だ。
人間の都合で「勝手に作った」巨大技術は
それに翻弄され、もろくも崩壊した。
不運と言えなくもない。

しかし不運で片付くような代物ではないのは自明だ。
今回の事故をきっかけに
にわか勉強した知識によれば
原子力(核)技術は未だ
取扱いの課題をかなり抱えている。

一番懸念を感じるのは
放射性物質の線量を強制的(人為的)に
無力化(減衰)する技術がないことだ。
漏れた放射性物質になす術が無い。
高放射線を持つ使用済み燃料は簡単に「ポイ」できない。
結局、封止して放射線が漏れても届きにくい大深度地下に
数百年埋めておくぐらいしか方法がない(しかし安定の保証は無い)。
ゴミが文明を滅ぼすという説は確からしい。

冷やすため、ひたすら水をジャブジャブぶっかけ
捨てるには土に埋めるしかない。
原子力は相当高度な技術という印象があるが
最後はプリミティブな方法に頼るしかないのか。
随分と乱暴なものなのだな、と思ったのは私だけか。

加速器で電子をぶつけて安定させれば
核崩壊(放射能)を阻止出来るという理屈はあるらしいが
狙い撃ちができないので、
同時に安定した元素を逆に放射化してまう。
やはりここは、イスカンダルへ
放射能除去装置を取りに行く
宇宙戦艦ヤマトの登場を待つしかなさそうだ・・・。

セオリー通りであれば、
原子力はそれなりに制御し得るものであるし
人への「安全」を確保することもできる。
事実いままではそうできてきた。幸運にも。
そう。セオリー通りであれば。

◆◆◆◆◆◆◆◆

想定とはセオリーの土台である。
想定の上であれば「完全」はありうる。
絶対安全です、も嘘ではない。
ただし括弧書きされた「想定内であれば」が付く。

しかし自然は、想定を提示してくれない。
地球には仕様書も取扱説明書もない。
多くの人間が観察、推測し、積みかさねられた
「たぶんこうじゃない?」という見解があるだけだ。
そこに地球くん当人の同意も承認も無い。
いわば無保証である。

全てはそれが前提なのだ。
地球くんはいつ何をしでかすかわからない。
でも、何もしないかもしれない。
不確実な存在そのものである。
住むなら自己責任でどうぞ、だ。

地球に住む人間は(特に日本は)
それを受容するしかない。
人間の都合で作る想定は結局
願望であり、幻想である。
想定外は常にある。表しかないコインはない。
想定内で治まるうちは、ラッキーだったのだ。
いつしか人はそれを忘れてしまう。

ここで、新しい技術を導入するときの
ひとつの指針が導ける。
想定(前提条件)は何で
一方、その想定を外れたとき何が起きるのか。
また手当てはできるものなのか。
損害は許容できる程度なのか。

そこに十分な(納得、理解できる)解がないとき
それを採用しない勇気も必要なのだと思う。
我々はいったいいつになったら
挑戦と暴挙を峻別する思慮を学習できるのだろう。

◆◆◆◆◆◆◆◆

私は無信教であるが
通った幼稚園がキリスト教系であったため
そこで「バベルの塔」を知った。

わたしには原発とバベルの塔が重なる。

バベルの塔は旧約聖書の「創世記」中に登場する
巨大な塔である。

ノアの洪水の後、人間は同じ言葉を話していた。
人間は石の代わりにレンガを、
漆喰の代わりにアスファルトを手にした。
こうした技術の進歩は人間を傲慢にした。
そして天まで届く塔のある町をつくり、
名誉を得ようとした。
ノアの子孫が、洪水をおこした神に
戦いを挑む目的があったともいう。

神は、人間の思い上がった企てを知り、怒った。
そして人間の言葉を混乱(バラル=バベルの語源)させ
意思疎通できないようにし、この企てを止めさせた。

世界中に多様な言葉が存在するのは、
神の裁きの結果である、という。
この伝承は、人間の技術の限界を
暗示しているとも考えられている。

◆◆◆◆◆◆◆◆

世の中に
絶えて桜の なかりせば
春の心は のどけからまし

しかし、今年の桜は
話題にならずかわいそうだという。

生物学者レイチェル・カーソンは1962年に
環境汚染(当時は化学物質が脅威だった)の重大性を、
鳥達が鳴かなくなった春という物語で訴えた。
それは「沈黙の春」という。

春に沈黙は似合わない。

来年は、賑やかな、いつもの春が来てほしい。
切に願わずにいられない。



菊水電子工業株式会社 ウェブマスター
藤川 貴記 webmaster@kikusui.co.jp

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