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その時間は誰のもの?
〜自分が「いる」時間と「いない」時間〜

2000年4月



子供というのは自分の時間を生きているのだな、と思う。何を突然と、お思いかもしれないが、例えばこんなことがある。私には、9歳と6歳の子供がいる。食事時に麦茶(当家では、冬でもなぜか常に冷蔵庫にこれがある)やらを飲むわけだが、その時使うコップは、上の子はポケモンの「ピカチュウ」、下の子は「マリル」のマンガが付いたそれでないと嫌だという。大人から見れば、そんな事どうでもいいじゃないか、と思ってしまうのだが、彼らには重要なことらしい。小さいお子さんをお持ちの方なら、まさしく茶飯事に経験されている話だろう。

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そこで、ふと自分を振り返ってみる。そういえば食事をはじめとする日常的な事柄への「こだわり」が最近少なくなった。歳をとったせいかもしれない。しかしよくよく考えると、生活の種々の場面への接し方が「処理的」もしくは「手段的」になっている事に気がついた。食事はとにかく腹がふくれれば何でも良い。通勤時間は、会社へゆくための手段。この時間は他の何かのための時間であって、「早く済ませること」が当たり前なのだ、と。そして仕事においても、同様な場面は多々ある。それではいったい自分が「自分の時間」として生きている時が一日の中でどれほどあるのだろう?。

子供らは、食事をけして「摂取作業」ではなく、お気に入りの食器を使う時間としても楽しんでいる。近所のスーパーへ買い物に付いてゆく道は「追いかけっこ」の時間である。時間はいつも「彼らの時間」なのだ。子供は「自分の時間を生きる」才能の持ち主とも言える。

昨今、連日のように企業、公官庁の不祥事・事件が報じらている。それらを見ていると、その発端に「処理で済まそう」とした担当者の気持ちがあったように感じる。当事者、つまり自分の時間として、その事象を思うことができなかった(つもりもなかった)がために「早く済ませてしまおう」としたのではないか。

仕事が何か他(収入など)のための「手段」になると、それは「自分がいない」時間になる。当然仕事の内容もカタチだけになりがちで、相手を人とも思わない対応を平然とやるようになる。

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面倒で、嫌で、面白みがないと思う事があったら、それは「自分の時間を生きていない」可能性が大である。そんな時はそれを「自分の時間」にする知恵を働かせみたい。私はそれをけして不謹慎などとは思わない。私たちは会社に修行をしに来ているわけではない。皆が一日の中で「自分の時間を生きる」割合を少し増やすだけで、世の中けっこう明るくなるような気がするのだけれど、それはやや脳天気な妄想だろうか?

菊水電子工業株式会社 ウェブマスター
藤川 貴記 webmaster@kikusui.co.jp

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