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モノづくり危機の本質
〜製造業の危機とモノづくりの危機は同じこと?〜

2002年7月



このところ、「モノづくり」という言葉が気にかかる。不況が長引くにつれ、「これはただの景気循環ではない」となったあたりから、モノづくりの「復権」やら「立国」をタイトルに冠する書籍やTV番組が増えたような気がする。さらに「モノづくりしか日本が生きる道はない…」といった論調になると、なにやら原理主義的なニュアンスが漂って、不快を覚える時もある。「なんか妙だな」と。

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なぜそう感じてしまうのだろう? モノづくりをおこなう製造業は、この国の発展の原動力であり、自分も含め皆がその恩恵に浴しているのは紛れのない事実だ。またモノづくり自身を否定する気もさらさらない。ところが今日、その製造業に存亡の危機が訪れ国の経済基盤もが崩れ出した。そしていつからか「モノづくりの危機だ!」となった。

「モノづくり精神」という表現がある。とくに日本人はモノづくりに精神的な重みや意味を感じるらしい。それが危機であるということを、自己の存在意義の危機のように捉えているのだろう。しかし、製造業の危機とモノづくりの危機ははたして同義なのか? 製造業がだめになったら、モノはつくれないのか? そしてこうも思う。ところで、モノづくりは工場でしかおこなわれないことなのだろうか…?

かつてのモノづくりは「創造」と「生産」の同時進行だった。だから職人が腕一本で生木や土からモノをつくり出す行為にいわば「入魂」を感じ得たのではないか。しかし近代の工業化は「創造」と「生産」の分業を進め、やがて後者の社会的役割(雇用)が大きくなり、いつしか「モノづくり≒生産」という認識になったのではないか。つまりモノづくりの危機といいながら、実は、生産基盤の競争力低下や流出・雇用減少といった側面に目を奪われ、そこに危機を感じているにすぎない。そして、アイデンティティの危機であるかのように騒ぎ、脅しをかける。しかし対をなす「創造」には、どうも目がいっていないようだ。

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「なに」を「どう」つくる、の「どう」ばかりで騒ぎたてて、「なに」の議論が深まらないのは気のせいか。日本のモノづくり危機の本質。それは「ぜい弱なクリエイティビティでは世界に通用しないこと」、しかもそこの危機感が薄いことではないのか?。工業生産の本質は「コピー」だ。高品質のコピーマシンはつくったが、ペイできるだけの稼働がなくなってしまい慌てているのだ。しかしコピーには「オリジナル」が必要であり、これからそれをどう生み出してゆくのか…。この課題の方がはるかに重いように思えるのだが。

菊水電子工業株式会社 ウェブマスター
藤川 貴記 webmaster@kikusui.co.jp

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