ガラクタを片付けよう
First Issue in Dec. 2009
またゴミの話をしようと思う。
文明はゴミで滅びると言われるように
実は物事の本質にかかわる重さを持ったマターなのだ・・・たぶん。
ゴミは最初からゴミであったわけではない。
なんらかの理由で価値を喪失したからゴミになった。
ということは、ゴミを見れば、
その主(元所有者)の生活(大袈裟に言えば生き方)や
考え方、価値感が推察できるのではないか。
まるで抜き型のように。
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放っておくと、確実にモノは溜まる。
自分の場合、母親譲りの潔癖性で、
子供の頃から、こまめに整理、掃除をする方であったが
それでも、気が付くとタンスや棚が
ギュウギュウ詰めになっている。
ハムスターを飼ったことがあった。
きゃつらは、口の中に「頬袋」という
エサを一時的に溜める器官を持っているが、
さらに巣箱についても、せっせと
敷きわらや、ひまわりの種を押し込む。
ひどくなってくると、エサが腐って異臭を放つし
あきらかに巣箱に入りにくいようになる。
しょうがないので、時々ゴミ出しの強制執行をしたものだが
人間様も、同じようにする必要があるようだ。
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そういったわけで、
私は、春先、秋口、そして今時分に、
思うままに買い漁った服やCD、DVD、本などを、
ごっそり処分するようにしている。
正直「惜しい」気持ちはある。無駄遣いだったと認めたくない気持ちもある。
先々に「ひょっとして」があるかもしれないじゃないか、とも思う。
しかし、持ち続けていて、あと何回袖を通すのだろう?
いったいいつ聴くのか?、見るのか?
「ひょっとして」はいつ来るのだろうか?
逆に「ひょっとして」が来たためしがあっただろうか?
よく考えてみると、答えの多くは「NO」になる。
結局、持っていることで、
何か満たされているような気がしているだけじゃないのか、と、
あるとき気付いた。
買ったモノは、イコール自分の生きた軌跡である。
それが目に見えると、安心できる。
実体があること、自分の存在(した時間)を
確認したい(誇示したい)という欲求。喜び。達成感。
それがモノとなって、部屋を埋めるのだ。
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モノの多寡と、主の内面の密度は反比例する。
不安や恐れ、(無意識な)自信のなさを埋める行為が
モノの過剰な所有というカタチで現れるようだ。
そう思うと、人は哀れである。
成功した、金持ちになった。
豪邸を建てた。高級車を何台も持ってる。
世界にふたつとない高級品を持っている。
しかしそれは、わたしの中身は空っぽです、と
言っているのと同じなのではないのか。
「ガラクタ捨てれば自分が見える
(カレン・キングストン著/小学館文庫刊)」によれば
買ったモノとは「過去への執着」であり、
それらが部屋を埋めているということは、
相対的に「未来」の入り込む余地がないということ。
金にあかせて、モノを買い漁り、貯め込む行為とは
その者の関心が、未来よりも
過去にある証(成功の確認、喪失する不安の隠蔽)に
他ならないのだ、という。
つまり、モノへの執着が強いとは、
「わたしは終わった」というサインなのだ。
モノを所有するな、ということではない。
問題は、貯め込んだまま、
いつまでも手放さない(できない)ことなのだ。
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部屋にあるモノは、
実は過去の自分の姿(関心事)の投影である。
だからそれらがいつまでも部屋にあり
しかも居心地が良いとしたら、
それは自分が成長していないということになろう。
逆に言えば、モノの処分が意思で出来るのであれば
成長の伸びしろ(自信)がある、ということになる。
モノを処分(ガラクタ視)できるかどうかが
その者の伸びしろ。
そういう目で、自分を、そしてまわりを見回してみる。
いろいろ発見があるのでは。
お試しあれ。
菊水電子工業株式会社
ウェブマスター:藤川 貴記
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